last updated 1997/05/25
第10話(全130話)
茶色い花 (1/2)
6 茶色い花
その花はピートの住むサンタ・クレアの町とダーレンという大都市を繋ぎ、大勢の人や物を
運んでくれている鉄道の、線路脇にひっそりと咲いていた。線路脇といっても平坦な地面では
ない。そこは町の中心部を流れるユーサイマ川の上空をまたぐ鉄橋の、橋脚だった。ピートは
半月前にその橋脚に昇ったことがあった。巣から落ちたツバメのヒナを片手にそっと抱いて、
親のもとへ返そうと思ったのだ。ヒナはピートの中でか弱くピーピーと鳴いていて、その声を
耳にした親ツバメがピーッと甲高く応えながら、ピートの上空をぐるぐると旋回していた。
ピートがしようとしていることの意味を親ツバメはちゃんと知っていて、滑りやすい橋脚を
おぼつかない動きで昇って行くピートに声援を送っているようだった。
間違ってもヒナを握りつぶしたりしないようにと、細心の注意を払いながら橋脚を昇って行
くと、そのてっぺんにツバメの巣があり、巣から少し離れた線路のすぐ脇に、その花が咲いて
いた。橋脚と同じ茶色の花だった。
母さんの童話にあったトルナトレナの花とそっくりだった。そう断言できる。
ピートは確信を持って、ユーサイワ川のほとりまで走ってくると、その上空に架かる鉄橋を
見上げた。全長三百メートルに及ぶその鉄橋は、さながら大空を舞うための、滑走路のようだ
。陽光に銀色の輝きを放つ橋は、いつにも増して美しく威風堂々としていて、ピートには世界
でいちばん美しい建造物だと思える。
ピートは半月前にヒナツバメ救助隊として活躍した橋脚へと目を向けた。親ツバメの旋回は
見えない。ヒナツバメの鳴き声も聞こえない。よく目を凝らしたけれど、巣そのものも見当た
らない。
「あれ?」
ピートは声に出して言うと、橋脚の周りをぐるりと一周してみる。やはり巣は消えてしまっ
ていた。何日か前の強い東風に吹き飛ばされてしまったのだろうか? ピートは足元の地面を
見回してみた。落ちてつぶれた巣はなかった。たぶん川へと落ちて流れに巻かれてしまったの
だろう。
巣がそういう運命を辿る前に、あのヒナが無事に巣立ってくれていたらいいんだけど。
ピートは空を見回してみた。あのヒナツバメが「やァ、この間はありがとう。ほら、おかげ
でぼく、こんなに上手に飛べるようになったんだよ」と上空からピカピカの真新しい翼を振っ
てくれるかもしれない。そう期待したのだが、空に鳥の影はない。どこまでも遠く晴れ上がっ
た空には、手ですくい取れそうな丸い雲がふたつ三つ浮かんでいるだけだ。
ピートは空が早くここまで昇ってこい、と呼んでいるのがわかった。空の頂きにいるはずの
父さんの声かも知れないと思った。
橋脚に手をかけ、ぐいっと地面を蹴ると、ピートはもう地上の住人ではない。空と地との間
を漂う者だ。
天使みたいだ。ピートはそう思う。橋脚を一段また一段と昇って行くごとに、彼は自分の体
がどんどん軽くなる錯覚に囚われる。手や足で橋脚を昇っているのではなく、背中に生えた見
えない羽根を力いっぱいはためかせて、ぐんぐんと空へ上昇して行く。そんな空想が彼の心を
満たす。母の病を治してくれる魔法の花を捜す自分と、この地に癒しを与えるために、天と地
の間を舞う天使のイメージが無理なく重なっていた。天使になった自分に満足しながら、ピー
トは茶色い花を求めて空へ空へと体を押し上げて行く。彼はいまそんな、マリイアの童話の世
界に入り込んでいた。茶色い花を捜すリュウという若者に、そしてこの世に平和をもたらす伝
説の花を捜しているはずの父の姿に、ピートはなりきっていた。
そこに魔法があるのだと信じることで、マリイアの童話はいつだってすんなりと、重力に縛
られた現実からピートを遊離させることができた。だから空想にばかり耽っている、脳たりん
だと笑われる。彼はそんなクラスメイトたちのからかいを聞き流していた。
ぼくを笑うのは、この世の中が算数と理科と社会の教科書だけで出来上がっていると思い込
んでいる連中であり、そういう連中のほうが脳たりんなんだ。教科書の向こうに愛と魔法の世
界が広大にひろがっている。求めれば、それはいつでも手の届くところにある。
マリイアは物語を通してピートにそう語りかけ続け、ピートはすべての子供がそうであるよ
うに、母の教えこそこの世の真実だと信じて疑わない少年だった。
いまピートは目の前に茶色い花をみつめていた。
橋脚のてっぺんまで登りきり、もし列車が走ってきたら、その轟音が体を粉々に粉砕してし
まうだろうと思えるほど、線路が頭上間近にあった。茶色い花はやっぱり橋脚と同じ色だった
。もしピートが算数と理科と社会の教科書だけを世界のすべてだと思い込んでいるような子だ
ったら、その花をこう言って嘲っただろう。
「ふん。何だ馬鹿らしい。これは橋脚を塗ったペンキが跳ねて、たまたま雑草にひっかかった
だけじゃないか。魔法なんかであるもんか。よく見ろよ。白い花にペンキがはねただけさ。ペ
ンキのかかったところだけが茶色くなってるだけの斑模様じゃないか」
そんな台詞はピートの耳に届かない。ピートは童話の世界を生きていた。マリイアの紡いだ
幻想の中に真実を見ていた。彼の頭にあるのは、母さんを元気にしてあげたいという、その真
摯な想い、それだけだった。
ピートがポケットから紙袋を引っ張りだし、花へと手を差し伸ばした、その瞬間、算数も理
科も社会も、その他の教科書のすべてが、彼の周りから本当に消え去った。まるでその瞬間を
待ち構えていたかのように、列車が橋脚に向かって爆進してきた。その轟音はピートの予想を
遥かに凌いでいた。それは頭上から叩き付けられる雷鳴の轟きだった。それは足元の大地を裂
いて、天空へと挑みかかる火山の噴火だった。それは新しい宇宙の誕生を告げる、ビッグバン
の咆哮だった。そしてそれは。橋脚の上で危ういバランス芸を披露していたピートを橋脚から
弾き飛ばすことの出来る、そんな大震動を伴っていた。
あ。
と思った時にはもう、ピートの体は橋脚を離れ、青空の懐へと投げ出されていた。彼の指先
が茶色い花の花弁をかすった。紙袋は疾走する列車の巻き起こす風に煽られ、どこかへ舞い飛
んだ。天使の翼を持っているんだと空想していたピートはいま、翼の偉大さを過信して、大空
から奈落へと墜落して行ったイカロスだった。
青空から自由落下して行きながら、ピートが思っていたのは、自分の命のことでも、母さん
の嘆き悲しむ様子でも、すべての将来への希望が粉々に砕け散るのだ、という現実でもなかっ
た。
(つづく)
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